書評10『京都ぎらい』井上章一

書評

2016年新書大賞。タイトルとは裏腹に著者は京都人。
生まれは嵯峨。育ちは宇治。いわゆる京の周縁「洛外」のご出身である。

京都御所を中心とした旧平安京一帯「洛中」に対し、その周辺の土地を「洛外」と呼ぶ。
階級意識の強い京都人(洛中人)の選別思想は激しく、洛外生まれの京都民を
こぞってバカにしているらしい。

戦後の平等教育下で生きてきた著者は、生まれ持った地で差別されるのが腹立たしい。
人種問題や身体的差別は許されていないのに、洛中の人間が洛外の人間を小馬鹿にする
風潮、これは暗黙の了解でよしとされている雰囲気がある。
こう考えると更に腹立たしい。

本書は、洛外に生まれ育った著者の、「洛中民」に対する鬱憤を爆発させた一冊になっている。
新書にによくある統計的な分析は一切出てこず筆者の主観が大半、だから内容自体に悩みながら
筆を進めているのがよくわかる(笑)のだが、
京都好きの府外民が読むと内情がわかって笑える。あまり肩肘貼らず読むことができる。

私は大学4年間を京都市の中京区で過ごした。
京都の街は温和な空気が溢れており、心地良い環境で学生生活を送ることができたと思っている。

ただ一つ感じていたのは、地元の方はみな「ローカルトーク好き」ということである。

「〇〇さん家の息子さんが〇〇大学に入学したらしい…」
「市議会議員の〇〇さんがこの間家に来てくださって…」

中心部の中京区では近隣住民のコミュニティが厚いようで、自転車を漕いでいると
井戸端会議の話題がよく耳に残る。

だから、確かに選民意識というか、部外者を貶めるような発言も聞いたことがある。
客観的に見れば「出生地で何が判断できんねん!」とツッコミたくもなるが、
本書後半で著者が漏らすこの本音が、京都人に選民意識を植え付けているのではなかろうか。

誰かを犠牲にすることで、このみちたりたくらしはなりたっているんじゃあないか、と

人間は弱い生き物なので、他人を格下に見て平常心を保っているけらいがある。
良い大学に入って偏差値の低い大学を見下す、大企業に入って中小零細を見下す。
それと同様で、洛中人も洛外人を見下して精神の安定を図っている。
また洛外の人間でも、自分よりさらに洛中から離れた地(嵯峨に対する亀岡とか)に住む人間を
同じく小馬鹿にして過ごしている。
一方近隣の大阪では、身内で小競り合っている京都を小馬鹿にして過ごしている。

…人間ってたぶん、こうしたマウントの取り合いを止められないのだと思う。
表面上繕っていても、内心小馬鹿にして、罵り合って生きているのである。
でもそんな他人が、ときに愛おしくなったり、頼りがいがあるように見えるときもあるものだ。

こんな本を出版しちゃうくらいには、著者も京都のことが好きなのだろう。
「好き」の反対は「無関心」と言うから、『京都ぎらい』は言い換えれば”京都に関心がある”ということなのだろう。

うちに秘めたドロドロな想いをひけらかすのは勇気がいることだと思うが、
その勇気に共感した読者がいて新書大賞にまで選ばれたのだろう。
「皆の胸の内を暴露する会」とか開いたら面白いかもしれない。
どこまで本音が引き出せるかわからないけれど。

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